峰岸 休文(みねぎし きゅうぶん、生年不明 - 万延元年7月6日(1860年8月22日))は幕末期の日本の学者。出身地から「鍋山休文」とも。「青峨」とも号す。
来歴
下野国鍋山村熊下(現・栃木市)の出身。鹿沼の鈴木石橋に学び、長崎でオランダ医学を学んだ。
帰国ののち西水代村(水代村・大平町を経て現・栃木市)の田村治兵衛の邸に家塾峰岸塾を建て、医業のかたわら、近村の者に学問を教えた。「公方様より、天朝様の方が尊い」と主張し、同地域での勤皇思想を広める端緒となった。幕末から明治に活躍した松本暢、国分義胤、川連虎一郎らも休文に学んだ。
水代に30年あまり滞在し、鍋山に帰ったとき70歳だった。
脚注
参考文献
- 日向野徳久 著、栃木市教育委員会 編『栃木市の歴史』栃木市教育委員会、1966年、185頁。
- 栃木県教育委員会 編『下野勤皇列伝・後篇』皇国青年教育協会、1944年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1043098/1/110。 (リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)




